小説 《都下恋物語》  -武蔵美ライブラリー③-

神妙な顔をしている舞子に、「三階の奥に“関係者以外は、立ち入り禁止”と記された閉ざされた書庫がありましたが、どんな書物が入っているのかご存知です?」と小松川が興味あり気に訊いて来た。舞子は少し間をおいてから「サークルの先輩で、昨年に油絵学科を卒業して大学の助手になられた男の人で、その人が立ち入り禁止の書庫に出入りしているのを目にしていたので、廊下でお会いした際に、店長さんと同じように訊ねたことがあるのです。そしたら、大学の助手であるサークルの先輩は、『滅多に、お目に掛かれない蔵書がごろごろしているぞ』と答えたのでした。それならばと思ってワイエスの好きな私は、何気にその画家の名を口にすると、先輩は『ニューヨークのホイットニー美術館で行われたアンドリュー・ワイエス展のカタログがあったぞ』と言われたので、ニューヨークの出版社が発行する美術洋書は目にすることは多くありまましたが、向こうの美術館の展覧会のカタログは見たことがないので、貴重なカタログがここの書庫に入っているのだと思いました」と答えた。すると、小松川は「ここの書庫に、ホイットニー美術館のワイエス展のカタログが・・・・・・」と驚き声で言ったのでした。びっくり顔の小松川に向かって、「ホイットニーのワイエス展のカタログが、そんなに驚くべきこことであるのか・・・・・・」と訊ねた。小松川さんは気持ちを抑えるようにして「ニューヨークではニューヨーク近代美術館で催された展覧会のカタログは、日本でも目にすることはあります。それは、この美術館はインターナショナルな活動する作家を紹介することを主な目的にしているのに対し、ホイットニー美術館は国内の作家活動を紹介することを主としているため、メイン州の片田舎をモチーフにするワイエスは、ニューヨーク近美では受け入れがたく、ワイエス展はホイットニーで行われるのが常でありました。日本ではインターナショナルゆえに、ニューヨーク近美の展覧会のカタログは目にすることはありますが、国内に向けてのホイットニーでの展覧会のカタログは目にすることはないのです。そんなホイットニーの、それもワイエスのカタログが、ここの書庫にあるとは・・・・・・」と答えた。そして、びっくりしている舞子の顔を眺めながら、小松川は「図書館に連れてきていだだいて、僕にとって一番の収穫は、立ち入り禁止の書庫ですが、ホイットニー美術館のワイエス展のカタログが、ここに収まっていることが判ったことです」と嬉しそうに語ったのでした。
図書館を出た舞子は、「お昼時ですね」と話し掛けて、「食券がありますので、学生食堂でよかったら、昼食を一緒にいかがです」と勧めると、小松川は考えるような仕草をしたので、「先生や職員の利用する食堂もありますが、・・・」と話すと、店長は「学生食堂だからというわけではなくて・・・、今日は食欲がなくて・・・、ありがとう」と、眠そうな目を瞬かせて答えた。舞子は、(お店の開店は午後四時からなのに・・・?でも、私の見ていないところで生欠伸をしていたから、昨夜は徹夜でもして・・・、店を開ける前に帰って一眠りしたいのだろう)と思った。舞子が「駅までの道は、わかります」と訊くと、小松川は「大丈夫です。来た道はしっかり覚えていますから・・・」と応えて「念願が叶って・・・。今日は、ありがとう」と述べた。舞子は(謝意を言われるほどのことは・・・)と思いながら、「お店に、どんな美術書が並ぶか、楽しみにしています」と応じた。小松川はにっこりすると、正門の方に向かって坂を下りて行った。舞子は坂の上から、小松川の後ろ姿を見送りながら、(店長さんには、やっぱり彼女がいるのかも知れない)と思った。

小説 《都下恋物語》  -武蔵美ライブラリー②-

受付カウンター前の通路を奥に進むと広い談話室があり、その奥が広々とした図書室になっていた。舞子はラウンジとライブラリーとの仕切りのある場所に立って、小松川に「一階から三階まで、エレベーターがないので階段で上がり下がりするのですが、どこの階も自由に閲覧できますので、蔵書をお気に召すまでご覧ください」と話し、「私は午後の授業のために、ラウンジで参考資料を読んでいますので・・・」と話した。舞子を前にして、小松川は「ありがとう」と言い、「美術大学の図書館が、こんなにも緊張したり興奮させる場所とは、思いもしなかった」とひたいに汗をにじませながら言った。舞子は微笑みながら、「図書館は、大学の中では”蔵書に囲まれたな隠れ家”みたいな所ですから、ドキドキ、ワクワクしても・・・」と応えて、童顔がますます子供っぽくなった顔を見つめながら、(小松さんを、案内してよかった )と思った。広いラウンジの窓際の席の傍らに立つと、舞子は席に座る前に通路の方に向いて手を上げると、仕切りの近くに立っている小松川も手を上げて応えた。小松川が奥のライブラリーに向かうのを見て、舞子は椅子に掛けた。
窓際の席で席に机に向かって参考資料を読んでいた舞子は、一時間ほどで読み終えるとラウンジから出て、通路に脇に備えた長椅子に掛けて小松川さんを待った。舞子がラウンジから出て十五分ほどすると、小松川さんが高揚した顔で、長椅子に近づいてきた。小松川さんが前に来ると、舞子は立ち上がり「参考になる本が、思ったより早く読み終えてしまったので、戻ってこられるのを、ここで待っていました」と伝えた。小松川は嬉しそうな顔で応えて、心の高まりを抑えきれないのか図書室の揃えている蔵書のことを話し出した。「さすが、美大の図書室です。国内外の美術書は勿論のこと、美術展や展覧会のカタログもたくさん揃っています。僕が喉からの手が出そうなくらい欲しい、一九七二年の三越デパートで催されたアンドリュー・ワイエスの展覧会カタログや、その三年後の大丸デパートでのワイエス展のカタログも揃っていました」と興奮気味に語って、「どちらの展覧会のカタログも、神田の古本屋を回ってもなかなか見つからないものです」と口惜しそうに語った。悔しそうな顔をしている小松川さんを前にして舞子は、「どちらのワイエス展のカタログも、以前に借りたことがあります。図書室には当然あるものと思っていましたので、その時にはレンタル・ビデオを借りるような気軽さで借りたことを覚えています。でも、店長さんのお話でとても入手が困難なものと知り、これからは当たり前のように思わないようにします」と自分を省みながら応えた。