小説 《都下恋物語》  -ジェイアール中央線④-

現役の美大生から【希望の星】と讃えられ、嬉しさで気持ちが舞い上がってしまった小松川は、左手にギブスをはめていることも忘れて、「図書館へお連れいただいたお礼に、ドライブでも・・・・・・?」と舞子を誘った。店長から突然のお誘いに、舞子は身構えることはなかったが、包帯の巻かれた左手を見て(あの手でハンドルが握れるのかしら)と思いながら、「ドライブに、・・・ですか」と応えた。左手に視線を感じた小松川は「看護士さんは、『来月の初めには、ヒビの入った骨のところがくっついて、ギブスが取れますよ』と話してくれました」と語り、「十二月の中頃には包帯が取れると思うので、車の運転もできるようになります。今年の暮れあたりのドライブは、いかがですか?」と訊いてきた。
舞子は(師走のドライブもいいかな)と思いながら、「以前から行って見たい場所があるんです。そこの所に行けるのでしたら、ドライブは・・・・・・」と応えた。小松川が興味深げに「その場所は、・・・?」と訊ねてきたので、舞子は「日本のアメリカです」と答えた。困惑している店長に、「福生にある米軍の横田基地のことです」と舞子は微笑みながら答えた。小松川は横田基地と知って、「福生周辺には、僕の知り合いも多いし、庭みたいなものです」とニンマリして、店内の中ほどに立つ舞子に話した。行って見たいところを庭みたいなものと教えられた舞子は、ほっとする気持ちになり、「横田基地でしたら、年の瀬でもいいですよ」と応えた。店長が頷くと、舞子の方からドライブの日時を決めていた。
今日は買わずに手ぶらの舞子は、胸の内に(横田基地へのドライブ)の大きな楽しみを抱えて、店の外に出た。赤いバイクに視線を送ってから、舞子は軽い足取りで交差点の方に向かって歩き出した。歩きながら舞子は(小松川さんには、彼女がいない)と思った。

小説 《都下恋物語》  -ジェイアール中央線③-

店長が話し終えると、小松川が嬉しそうに看護士さんのことを語っていたことにムッとした舞子は、「左手が不自由なのに、問屋さんへ仕入にいらしたのですか?午前中にお見かけした時には、手には何もお持ちでありませんでしたが、・・・・・・?」とトゲトゲしい口調で訊いていた。小松川は(突っけんどんな訊き方だな)と思いながら「問屋さんには、航空便や船便で洋書が入荷してきます。入荷した物は、毎日のように問屋に出向いて仕入する担当の者を抱える、大手書店によって買われてしまいます。僕のように一人で営んでいる店では、新しい洋書を手に入れるのがとても難しいです。それに、大手書店は仕入れた品を、二、三ケ月後に支払いの可能な伝票にサインするだけなので、ごっそりと買われてしまいます。僕のような小さな店は、現金払いなので、買いたい美術書があっても、その日の持ち合わせ金しか手に入れることが出来ません。それでも欲しい洋書があるときは、顔見知りの問屋さん担当者のご好意で、その月の末までお取り置きをしてもらうことが出来ます。今朝に問屋さんに出かけて、買いたい美術書があったのですが、持ち合わせが足らなくて、お取り置きにしてもらったのです。ですから、手ぶらで帰ってきたのです」と答えて、「今回にお取り置きしてもらった美術書は、ドイツの画家で版画家でもあるハンス・ベルメールの作品集で、以前よりムサビの学生さんに頼まれていた版画集です」と穏やかなに語った。
舞子は「・・・・・・、帰って来たのです」と話された時に、とげとげしい口調で訊いたことを悔やんで店長の顔を見ることが出来なかった。問屋さんの帰りに何も手に持っていなかったことを理解して、看護士さんについて熱心に話されたことも気にするほどのことではないと思うと、小松川に突っけんどんな口調で訊ねたことを反省することが出来た。
舞子は素直な気持ちで「店長さんは、仕事熱心な人ですね」と応えると、小松川はおだやかな顔をくずして嬉しそうに笑った。店長が笑顔で応えたので、ほっとした舞子は、白い包帯の巻かれた左手を見てから小松川の顔を見て「痛々しいですが、店長さんは美大生の希望の星です」と精一杯の賛美を贈った。

小説 《都下恋物語》  -ジェイアール中央線②-

看板灯に照らされて暗闇に浮かび上がるように見える立て看板の前まで来ると、舞子は(あれっ)と思った。いつも店先に停まっている赤いバイクがなかったからです。(どうしたのかな)と思いながら、舞子は木製ドアの鉄のノブを手前にひいて店内に入ると、机に向かって通信用のハガキに記していた店長さんが顔を上げて「いらっしゃいませ」と挨拶をした。舞子も挨拶しようと机の方を向くと、ペンを持つ右手の反対の店長の手に白い包帯が巻かれているのを目にして、「左手を、どうしたのですか?」と訊いていた。小松川は苦笑しながら(夜明けにバイクで居眠り運転をして、ガードレールに突っ込み・・・・・・)とは言えず、「店先に停めているバイクを、走らせている途中で転倒し、診療所で診てもらうと、そこの医師から『左手の甲に、ヒビが入っています』と言われて、ギブスをあてがわれて、ご覧のありさまです」と説明した。泣き笑いしている店長の表情から気落ちしているようには見えなかったので、舞子は「はやく、ギブスが取れるといいですね」と明るく応えた。苦笑する店長の顔が、嬉しそうな表情に変わった。
舞子は(今日に、来店した目的を果たそう)と思い、嬉しそうな顔をしている店長に訊ねるために話し掛けたが、口から出たのは「赤いバイクは、どうなったのですか?」の言葉でした。小松川は顔を強張らせながら、「乗っていたバイクは、フロントに壊れて箇所があって、修理してもらうために、駅の北口にあるバイク屋さんに預けてあります」と答えた。舞子は(目的と違うことを、訊いてしまった)と思いながら、(店先に停まっていた赤いバイクは、招き猫みたいな置物ではなく、しっかりと動く・・・物である)と思った。
訊こうとして訊けない悶々とした気持ちで舞子は、入口から向かって左の壁に全体の備えた本棚の中ほどに立って、棚の美術洋書に手を伸ばすでもなく眺めていた。その様子を見ていた小松川が「軽部さんのおかげで、この店を開いてからの、ひとつ夢が叶いました」と言って話しかけて来た。舞子が机の方にむくと、店長は「美大の図書館に、どのような蔵書を所有されているのか判ったことで、夢の一つが・・・・・・、そのおかげで、仕入れをする際にとても参考になっています」と、ますます子供っぽい顔になって語った。舞子は、子供っぽい中に可愛さも覗かせる小松川さんの顔を見ていたら(訊ねようとしていたこと)が喉元に上がって、言葉となって口から出たのでした。舞子は突然に「今日の午前十時半ごろでしたが、ご一緒に駅前の坂を下りて行くのを見かけました。素敵な女性でしたが、店長さんとは・・・・・・?」と訊ねていた。舞子が唐突に訊ねたので、初めは理解できなかった店長であったが、思い出しながら「ああ、あの人ですね」と言い、「池田さんです。あの女性は、僕が診てもらっている坂下の診療所にお勤めで、僕の左手が治るまで担当をされている看護士さんです」と答えた。舞子が(今朝に見かけた女性は、店長さんの治療先の看護士さんなのか)と思いながら黙っていると、小松川は「池田さんのご主人はレントゲン技師で、杉並区にある病院にお勤めされています」と補うように語り、「池田さんは武蔵境からジェイアールで通っていらっしゃるのですが、問屋さんのある早稲田からの帰り新宿駅から中央線に乗ったのですが、偶然に高尾行きの快速電車に乗り合わせたのです」とにこやかに語った。

小説 《都下恋物語》  -ジェイアール中央線①-

十一月の最初の火曜日。舞子は午後の実習授業を受けながら、午前中に目にした光景を思い出していた。授業中で有りながら心ここに有らずの光景とは、舞子がアパートから駅の途中に在る画材店で用を足して、その店舗のあるマンションの半地下から坂の歩道に出ようとした時でした。アート・ブックスの店長が道路を隔てた反対側の坂道を下りて行くのを、舞子は見たのでした。年は二十五、六の女性と一緒に、楽しそうに話しながら坂を下って行く小松川の斜め後ろ姿を、舞子は目にしたのでした。
実習に身が入らなかった舞子は、時間内に作品が出来ず自宅に持ち帰り、改めて明日に提出となった。舞子は、アパートに持ち帰りすぐに作品に取り掛かろうと、今日のアルバイトを明日に交代してもらうため、同じバイト仲間の音大に通っている一つ上の聖子さんの携帯に電話した。メールで了解の返事が届いたので、舞子は授業が終わり次第に大学からアパートに帰ることにした。
西武国分寺線の国分寺駅を出た舞子は、ジェイアール中央線の線路上に架かる橋を渡り、中央線の国分寺駅南口の広場に出ると、左手の丸井・デパートを横目に駅前の坂を下りて行った。坂の途中の画材屋が入っている半地下のマンションの前まで来ると、今日の午前中に小松川店長さんと親しそうに話していた女性が脳裏を横切り、舞子は(このままアパートに帰っても、集中して作品に取り掛かれない)と思うのでした。坂下の交差点まで来た舞子は、信号が赤であったので青になるのを待った。信号が変わり横断歩道を渡り始めた舞子は、歩道を渡りきるとアパートの方向に進まず右に折れて、美術洋書と書かれた立て看板のある方向に歩き出していた。晩秋の夕暮れは早く、午後五時をまわった商店の軒下は点った看板灯で明るく照らし出され、その灯りに街路灯のない道路脇もほんのりと明るくなっていた。